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韓国研修旅行
- 2009.11.08 Sunday
- ものぐさ日記
- 21:00
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- by 安兵衛
2009年は実にいろんなことが起きた年でした。
「ほっとっスペース八王子」が助成金で運営される形で開設されて、14年。
様々なことが起きましたが、まさか「ほっとスペース八王子」の理念が破壊され、似ても似つかぬものに変容しようとは思いもよりませんでした。2007年に採用された職員の画策で自分が働きやすいように「ほっとスペース八王子」の理念や運営に関する考え方を根本から破壊し、タカリ屋組織にしようとしたからです。
その影響は新しい会員、新しい運営委員などの役員の中にまではびこってしまいました。いまもその影響は残っています。
「ほっとスペース八王子」をタカリ屋組織に変質させる試みはしかし、腐敗した職員が辞めてから直ぐに崩壊しました。
「精神病者」をめぐる現実がそうさせたのです。杉並区のグループホームに入居していた和田重徳さんの孤独死、今号でも獄中日誌で登場している村仲徹さんの軽い傷害事件での逮捕・長期勾留、仲間たちから次々と連絡があって明らかにされてきた長期強制入院の数々。自死の報告。
最初は腐敗した職員の影響もあって、代表も「会員でないから」「現会員が知らないから」など長期強制入院者へのお見舞いに直ぐに駆けつける状況ではなかった。逮捕された仲間に対しても、「結局、何か悪い事したんでしょう。自業自得よ」という議論で仲間の苦しんでいる状況を思い浮かべることもなかった。しかし、実際に自由を奪われ苦しんでいる仲間を目の当たりにすると誰でも、「他人事ではない」と実感できるのでした。
自分だけ何とかなれば良い、自分だけ助かれば良いという考えは支え合って生きていくしか生きていく方法がない僕たち「精神病者」にとって相容れない考えです。「精神病者」をめぐる具体的な事件の数々がたまたま「ほっとスペース八王子」とつながりのある仲間に起きたので現実が見えてきたのです。精神病院・精神科クリニック、授産施設と自分の部屋だけの往復だけの生活であれば、このような現実は、目に留まることもなく闇から闇に葬り去られたことでしょう。
偶然、逮捕されたら「ほっとスペース八王子」に連絡する、長期入院されていることを連絡する、知り合いが自死したことを連絡するのが当たり前という意識を持った仲間の連絡があったから、そしてそれを受け留める「ほっとスペース八王子」があったから白日の下に明らかになっただけです。
以前、このニュース紙上で部落解放運動の腐敗について述べている仲間がいました。しかし、その腐敗の原因は行政から補助金などの援助を受けるから起きたのではありません。解放運動を担う担い手が解放運動の理念や解放理論を若い世代に伝えていく努力を怠り、行政からの援助が既得権として形骸化したからです。今回の腐敗した元職員の企ては行政からの援助が当たり前で、解放運動としての理念や考え方をないがしろにしたことから起きたものです。この危険性は「ほっとスペース八王子」にも絶えずついて回っています。「ほっとスペース八王子」が解放運動をやめ、解放運動への積極的な取り組みをやめた途端に腐敗は始まる運命にあることを肝に銘じる必要があると思います。
さて、現在、韓国研修旅行についての是非が問題になっています。
行政もここに到って介入しようとしています。「精神病者」の集まりである「ほっとスペース八王子」が何故、韓国研修旅行を企画し、実施するのかの議論を再度行う必要があります。
「精神病者」が海外旅行することの是非は他の仲間からも意見が出されていると思うので、僕は何故韓国にこだわるのかという点を述べます。
植民地支配されてきた朝鮮・韓国が日本の植民地支配下で迫害を受けながら差別を受けながら呻吟し、苦悩してきた歴史を持っていた。そして、現在も在日朝鮮民衆には戦前からの植民地支配の考えが外国人登録法、出入国管理法に色濃く反映しています。
日本で生活できるのが期限付きで認められるという在留資格問題、永住権があってもいったん外国に出てしまうと再入国が認められない場合もあること、再入国ができても永住権がなくなる場合もあることなどです。永住権を持っていても国政の被・選挙権はなく、地方議員への被・選挙権のみ与えられるという二級国民としての地位しか与えられないことなどです。
しかし、日本が敗戦するや直ぐに国としての形、アイデンティティを発揮することができたのは一体何故だろうか。確かに、南北分断され、アメリカとソ連、日本や中国の狭間に置かれて歪な形ではあったにしろ朝鮮民族としての歴史と文化を生き長らえさせながら、イ・スンマン〜パク・チョンヒ〜チョン・ドファン〜独裁政権下でも地下で脈々と生き続き、それが民主政権を実現させて今日では韓国民主労働組合総連合(民主労総)という形の世界でも有数の労働組合ナショナルセンターを構築するまでに到っています。日本では新左翼がそれを目指しながら出来なかった新左翼的な労働組合ナショナルセンターです。そしてグローバリズムに対して、新自由主義に対して果敢に闘いを挑み、韓国の若い労働者を現在も組織し続けている現実をどう捕らえるのかと思うのです。
「精神病者」が解放運動を進める上で韓国・朝鮮民衆の独立・解放運動は部落解放運動と並んで重要な問題や課題を投げかけているのではないかと思うのです。日本政府によって明成皇后が暗殺され、朝鮮王朝が解体され、植民地支配される状況に追い込まれたわけですが、アン・ジュングンの伊藤博文暗殺の快挙・義挙。1919年3・1独立万歳蜂起。日本の敗戦後は植民地下で活動していた1948年4・3チェジェ(済州)島蜂起、1960年4・19蜂起、1980年5・18のカンジュ(光州)蜂起などなど数え上げればたくさんの事件、出来事があります。
韓国研修旅行に参加しなかった「ほっとスペース八王子」の仲間は韓国研修旅行に批判の眼を向けています。わずか4名の参加者のために助成金を使うのは如何なものかと。この会員の問いに参加した仲間たちはどう答えることが出来るのか。
韓国研修旅行に参加した「ほっとスペース八王子」の仲間たちを中心に八王子市を震撼させるような2009年の革命が起きるのでしょうか。
「ほっとっスペース八王子」が助成金で運営される形で開設されて、14年。
様々なことが起きましたが、まさか「ほっとスペース八王子」の理念が破壊され、似ても似つかぬものに変容しようとは思いもよりませんでした。2007年に採用された職員の画策で自分が働きやすいように「ほっとスペース八王子」の理念や運営に関する考え方を根本から破壊し、タカリ屋組織にしようとしたからです。
その影響は新しい会員、新しい運営委員などの役員の中にまではびこってしまいました。いまもその影響は残っています。
「ほっとスペース八王子」をタカリ屋組織に変質させる試みはしかし、腐敗した職員が辞めてから直ぐに崩壊しました。
「精神病者」をめぐる現実がそうさせたのです。杉並区のグループホームに入居していた和田重徳さんの孤独死、今号でも獄中日誌で登場している村仲徹さんの軽い傷害事件での逮捕・長期勾留、仲間たちから次々と連絡があって明らかにされてきた長期強制入院の数々。自死の報告。
最初は腐敗した職員の影響もあって、代表も「会員でないから」「現会員が知らないから」など長期強制入院者へのお見舞いに直ぐに駆けつける状況ではなかった。逮捕された仲間に対しても、「結局、何か悪い事したんでしょう。自業自得よ」という議論で仲間の苦しんでいる状況を思い浮かべることもなかった。しかし、実際に自由を奪われ苦しんでいる仲間を目の当たりにすると誰でも、「他人事ではない」と実感できるのでした。
自分だけ何とかなれば良い、自分だけ助かれば良いという考えは支え合って生きていくしか生きていく方法がない僕たち「精神病者」にとって相容れない考えです。「精神病者」をめぐる具体的な事件の数々がたまたま「ほっとスペース八王子」とつながりのある仲間に起きたので現実が見えてきたのです。精神病院・精神科クリニック、授産施設と自分の部屋だけの往復だけの生活であれば、このような現実は、目に留まることもなく闇から闇に葬り去られたことでしょう。
偶然、逮捕されたら「ほっとスペース八王子」に連絡する、長期入院されていることを連絡する、知り合いが自死したことを連絡するのが当たり前という意識を持った仲間の連絡があったから、そしてそれを受け留める「ほっとスペース八王子」があったから白日の下に明らかになっただけです。
以前、このニュース紙上で部落解放運動の腐敗について述べている仲間がいました。しかし、その腐敗の原因は行政から補助金などの援助を受けるから起きたのではありません。解放運動を担う担い手が解放運動の理念や解放理論を若い世代に伝えていく努力を怠り、行政からの援助が既得権として形骸化したからです。今回の腐敗した元職員の企ては行政からの援助が当たり前で、解放運動としての理念や考え方をないがしろにしたことから起きたものです。この危険性は「ほっとスペース八王子」にも絶えずついて回っています。「ほっとスペース八王子」が解放運動をやめ、解放運動への積極的な取り組みをやめた途端に腐敗は始まる運命にあることを肝に銘じる必要があると思います。
さて、現在、韓国研修旅行についての是非が問題になっています。
行政もここに到って介入しようとしています。「精神病者」の集まりである「ほっとスペース八王子」が何故、韓国研修旅行を企画し、実施するのかの議論を再度行う必要があります。
「精神病者」が海外旅行することの是非は他の仲間からも意見が出されていると思うので、僕は何故韓国にこだわるのかという点を述べます。
植民地支配されてきた朝鮮・韓国が日本の植民地支配下で迫害を受けながら差別を受けながら呻吟し、苦悩してきた歴史を持っていた。そして、現在も在日朝鮮民衆には戦前からの植民地支配の考えが外国人登録法、出入国管理法に色濃く反映しています。
日本で生活できるのが期限付きで認められるという在留資格問題、永住権があってもいったん外国に出てしまうと再入国が認められない場合もあること、再入国ができても永住権がなくなる場合もあることなどです。永住権を持っていても国政の被・選挙権はなく、地方議員への被・選挙権のみ与えられるという二級国民としての地位しか与えられないことなどです。
しかし、日本が敗戦するや直ぐに国としての形、アイデンティティを発揮することができたのは一体何故だろうか。確かに、南北分断され、アメリカとソ連、日本や中国の狭間に置かれて歪な形ではあったにしろ朝鮮民族としての歴史と文化を生き長らえさせながら、イ・スンマン〜パク・チョンヒ〜チョン・ドファン〜独裁政権下でも地下で脈々と生き続き、それが民主政権を実現させて今日では韓国民主労働組合総連合(民主労総)という形の世界でも有数の労働組合ナショナルセンターを構築するまでに到っています。日本では新左翼がそれを目指しながら出来なかった新左翼的な労働組合ナショナルセンターです。そしてグローバリズムに対して、新自由主義に対して果敢に闘いを挑み、韓国の若い労働者を現在も組織し続けている現実をどう捕らえるのかと思うのです。
「精神病者」が解放運動を進める上で韓国・朝鮮民衆の独立・解放運動は部落解放運動と並んで重要な問題や課題を投げかけているのではないかと思うのです。日本政府によって明成皇后が暗殺され、朝鮮王朝が解体され、植民地支配される状況に追い込まれたわけですが、アン・ジュングンの伊藤博文暗殺の快挙・義挙。1919年3・1独立万歳蜂起。日本の敗戦後は植民地下で活動していた1948年4・3チェジェ(済州)島蜂起、1960年4・19蜂起、1980年5・18のカンジュ(光州)蜂起などなど数え上げればたくさんの事件、出来事があります。
韓国研修旅行に参加しなかった「ほっとスペース八王子」の仲間は韓国研修旅行に批判の眼を向けています。わずか4名の参加者のために助成金を使うのは如何なものかと。この会員の問いに参加した仲間たちはどう答えることが出来るのか。
韓国研修旅行に参加した「ほっとスペース八王子」の仲間たちを中心に八王子市を震撼させるような2009年の革命が起きるのでしょうか。
従軍慰安婦展示
- 2009.08.03 Monday
- ものぐさ日記
- 11:56
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- by 安兵衛
8月1日から3日まで三鷹市で行われる従軍慰安婦展示会に参加しました。
日本がアジア侵略を行う際に国際的にも恥ずべき女性の性を蹂躙する軍の行為に対して、日本人の行為に対して二度と同じような行為を起こさないための企画です。夏休み親子で平和を考え合う企画で10数年三鷹市で地道に活動を進めてきたロラネットのみなさんの活動でした。
それを心無いネット右翼によって多くの市民の参加、問題意識を持たせない卑劣な恥ずべきファシストのような妨害が行われました。
いまは民族差別を吹聴し、日本人以外は人権を与えないというとんでもない主張をしていますが、こういう右翼の主張を許していると、次は「障害者」「精神病者」に向けられてしまいます。
ナチス、ファシストの歴史を見るまでもなく、最初は左翼、共産主義者や社会主義者に向けられ、その運動が沈滞するや次は他民族、そして社会的弱者に向けられていきます。
そして、平和主義者や自由主義者、そして最後には政治的には全く何の主張もない一般の市民が奴隷のように戦争に駆り出されていきます。
こういう右翼のうごめきに一つ一つ僕たちは毅然とした態度で立ち向かう必要があります。そして、自分たちの運動や主張をもっともっと大きく発展させる契機にしないといけません。
増田先生によるヒロシマ学習会のような近現代史の事実をもって正しい歴史認識を小さな拡がりからでもよいので、地道に広げていきましょう。
「ほっとスペース八王子」の役割は単に「精神病者」のためだけの運動、活動ではありません。「精神病者」の解放のためには多くの労働者、市民の協力、理解が必要です。そして彼らの支えがないと僕らは一日たりとも生きてはいけないのです。その為にも僕らは広く事実をもっての正しい歴史認識を広めていく活動にも微力ながら協力していく必要があります。
日本がアジア侵略を行う際に国際的にも恥ずべき女性の性を蹂躙する軍の行為に対して、日本人の行為に対して二度と同じような行為を起こさないための企画です。夏休み親子で平和を考え合う企画で10数年三鷹市で地道に活動を進めてきたロラネットのみなさんの活動でした。
それを心無いネット右翼によって多くの市民の参加、問題意識を持たせない卑劣な恥ずべきファシストのような妨害が行われました。
いまは民族差別を吹聴し、日本人以外は人権を与えないというとんでもない主張をしていますが、こういう右翼の主張を許していると、次は「障害者」「精神病者」に向けられてしまいます。
ナチス、ファシストの歴史を見るまでもなく、最初は左翼、共産主義者や社会主義者に向けられ、その運動が沈滞するや次は他民族、そして社会的弱者に向けられていきます。
そして、平和主義者や自由主義者、そして最後には政治的には全く何の主張もない一般の市民が奴隷のように戦争に駆り出されていきます。
こういう右翼のうごめきに一つ一つ僕たちは毅然とした態度で立ち向かう必要があります。そして、自分たちの運動や主張をもっともっと大きく発展させる契機にしないといけません。
増田先生によるヒロシマ学習会のような近現代史の事実をもって正しい歴史認識を小さな拡がりからでもよいので、地道に広げていきましょう。
「ほっとスペース八王子」の役割は単に「精神病者」のためだけの運動、活動ではありません。「精神病者」の解放のためには多くの労働者、市民の協力、理解が必要です。そして彼らの支えがないと僕らは一日たりとも生きてはいけないのです。その為にも僕らは広く事実をもっての正しい歴史認識を広めていく活動にも微力ながら協力していく必要があります。
昭和天皇が死んで20年
- 2009.02.11 Wednesday
- ものぐさ日記
- 12:35
- comments(0)
- trackbacks(0)

- by 安兵衛
今日は建国記念日。天皇制が始まった記念日だそうです。
この天皇制について考えてみました。
昭和天皇が死の渕で苦しんでいた1988年暮れから、亡くなった1989年初頭、そして大々的に執り行われた天皇の葬式にかけて、天皇制と「精神病者」とが相容れない非和解の存在なんだと改めて感じた年だった。
当時僕は八王子・赤堀さんと共に闘う会で活動していた。
1954年の3月に起きた島田市の幼女誘拐殺害事件に無実の「精神障害者」赤堀政夫さんがでっち上げ逮捕され、死刑の判決を受け、35年間死刑囚として仙台の刑務所に閉じ込められていた。全国で心ある人々、「障害者」「精神病者」が救援活動を展開していた。
そして、1989年の1月にとうとう静岡地方裁判所で再審裁判(裁判のやり直し)が始まろうとしていたのです。その1月に昭和天皇という日本のアジア侵略から米英との間に起こした世界戦争の責任を持った超A級戦争犯罪人が死の淵にいたのでした。毎日毎日今日は何mlの血を点滴した、何mlの下血があったという報道がなされていました。いわば、死ぬ間際まで民衆の血を吸いながら生きていたのです。
その時、八王子・赤堀さんと共に闘う会に天皇制弾圧が起きました。
当時、八王子・赤堀さんと共に闘う会は富士森高校の直ぐ近くに事務所を構えていました。その事務所の前の道路脇に24時間体制で機動隊の装甲車が横付けされていました。八王子・赤堀さんと共に闘う会の事務所に出入りする一人一人の会員やお客さんなどを武装した警察機動隊員が監視していたのです。
さらに、八王子・赤堀さんと共に闘う会の代表であった佐藤和喜雄さんや一部の会員の自宅、事務所、そして路上で身体捜検が行われた会員もいました。何で家宅捜査や身体捜検がされたのか理解できない理由で家宅捜査がされました。また、八王子・赤堀さんと共に闘う会の会員は「精神病者」が多かったのですが、会員のほぼ全員に家宅捜査ではなかったのですが、聞き込み捜査が入りました。公安警察が各部屋に聞き込みに来たので、多くの会員は具合が悪くなりました。怖くて一歩も外に出ることができなくなったり、いつも誰かが自分を監視しているのではないかと思ったり、外出すると誰かが後を付いてくるのではないかとか、自分が外出中に誰かが自分の部屋に入って家捜しされたのではないのかと不安になった会員が続出しました。
しかし、赤堀さんと共に闘う会はそういう弾圧の中でも、お互いを励ましあい、支えあって赤堀さんを救援する取り組みがそれによって崩されることはなく、再審裁判の初公判にはほぼ全員が機動隊の装甲車が横付けされている事務所ではなく、高尾青年の家に泊りこんで静岡地方裁判所に向かいました。
この時ほど天皇制がどんなものかを知ったことはありませんでした。戦後の象徴天皇制は戦前の天皇制とは違う、民主的な天皇制なんだと言われてきましたが、「精神病者」と皇室は相いれない存在だということを教えてくれた事件でした。昭和天皇が死んだ後も死ぬ前もあったのでしょうが、今まで気が付かなかったのですが、皇室関係者が八王子の皇室関係者の墓にお参りする度に甲州街道などに警察官が要所要所に配置されています。
八王子市には精神病院が多いのですが、開放病棟に収容されている仲間でもそういう皇室関係の行事がある日には何故かいろんな理由をつけて外出が許可されていません。これはいまでも続いているようですね。
「精神病者」が当たり前のように地域で生きていくためにはこういう天皇制との闘いを抜きにしてはあり得ないことを改めて教えられた事件でした。「日の丸君が代」押し付けが今年も3月4月にありますが、こういう天皇制と「精神病者」が向き合う大事な出来事です。僕たちが向き合わなくても、天皇制は彼らが必要と思った時には僕らに襲い掛かってくる危険な存在なのです。
この天皇制について考えてみました。
昭和天皇が死の渕で苦しんでいた1988年暮れから、亡くなった1989年初頭、そして大々的に執り行われた天皇の葬式にかけて、天皇制と「精神病者」とが相容れない非和解の存在なんだと改めて感じた年だった。
当時僕は八王子・赤堀さんと共に闘う会で活動していた。
1954年の3月に起きた島田市の幼女誘拐殺害事件に無実の「精神障害者」赤堀政夫さんがでっち上げ逮捕され、死刑の判決を受け、35年間死刑囚として仙台の刑務所に閉じ込められていた。全国で心ある人々、「障害者」「精神病者」が救援活動を展開していた。
そして、1989年の1月にとうとう静岡地方裁判所で再審裁判(裁判のやり直し)が始まろうとしていたのです。その1月に昭和天皇という日本のアジア侵略から米英との間に起こした世界戦争の責任を持った超A級戦争犯罪人が死の淵にいたのでした。毎日毎日今日は何mlの血を点滴した、何mlの下血があったという報道がなされていました。いわば、死ぬ間際まで民衆の血を吸いながら生きていたのです。
その時、八王子・赤堀さんと共に闘う会に天皇制弾圧が起きました。
当時、八王子・赤堀さんと共に闘う会は富士森高校の直ぐ近くに事務所を構えていました。その事務所の前の道路脇に24時間体制で機動隊の装甲車が横付けされていました。八王子・赤堀さんと共に闘う会の事務所に出入りする一人一人の会員やお客さんなどを武装した警察機動隊員が監視していたのです。
さらに、八王子・赤堀さんと共に闘う会の代表であった佐藤和喜雄さんや一部の会員の自宅、事務所、そして路上で身体捜検が行われた会員もいました。何で家宅捜査や身体捜検がされたのか理解できない理由で家宅捜査がされました。また、八王子・赤堀さんと共に闘う会の会員は「精神病者」が多かったのですが、会員のほぼ全員に家宅捜査ではなかったのですが、聞き込み捜査が入りました。公安警察が各部屋に聞き込みに来たので、多くの会員は具合が悪くなりました。怖くて一歩も外に出ることができなくなったり、いつも誰かが自分を監視しているのではないかと思ったり、外出すると誰かが後を付いてくるのではないかとか、自分が外出中に誰かが自分の部屋に入って家捜しされたのではないのかと不安になった会員が続出しました。
しかし、赤堀さんと共に闘う会はそういう弾圧の中でも、お互いを励ましあい、支えあって赤堀さんを救援する取り組みがそれによって崩されることはなく、再審裁判の初公判にはほぼ全員が機動隊の装甲車が横付けされている事務所ではなく、高尾青年の家に泊りこんで静岡地方裁判所に向かいました。
この時ほど天皇制がどんなものかを知ったことはありませんでした。戦後の象徴天皇制は戦前の天皇制とは違う、民主的な天皇制なんだと言われてきましたが、「精神病者」と皇室は相いれない存在だということを教えてくれた事件でした。昭和天皇が死んだ後も死ぬ前もあったのでしょうが、今まで気が付かなかったのですが、皇室関係者が八王子の皇室関係者の墓にお参りする度に甲州街道などに警察官が要所要所に配置されています。
八王子市には精神病院が多いのですが、開放病棟に収容されている仲間でもそういう皇室関係の行事がある日には何故かいろんな理由をつけて外出が許可されていません。これはいまでも続いているようですね。
「精神病者」が当たり前のように地域で生きていくためにはこういう天皇制との闘いを抜きにしてはあり得ないことを改めて教えられた事件でした。「日の丸君が代」押し付けが今年も3月4月にありますが、こういう天皇制と「精神病者」が向き合う大事な出来事です。僕たちが向き合わなくても、天皇制は彼らが必要と思った時には僕らに襲い掛かってくる危険な存在なのです。
■再発して思うこと
- 2009.01.23 Friday
- ものぐさ日記
- 15:37
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- by 安兵衛
僕は「精神病者」として自分の闘病経験(おもに80年代の10年間)、そしていま運営している「精神病者」自主運営の共同作業所での経験を通していろんな人との出会いがありました。その現実は秋葉原事件や集団自殺のたぐいの現象に先行しています。「精神病者」はあまりにも真面目過ぎて自分の中に矛盾を抱え込んで発病し、自分を傷つけたり、自死にまで追い込まれたり、自分を防御するのに本能的に人を傷つける行為をしてきました。
いままでは精神的に病んでしまって、そういう行為に走っていました。ところが現在は心の病気でもない人が当たり前のように秋葉原事件、集団自殺のような行為をしてしまう状況になっているような気がしてなりません。
ライシャワー事件以来「精神病者」に対して、治安対策、社会安全対策として精神科治療費用を無料にして、とにかく治療してくれと政府は「精神衛生法」を改定し、強制精神科医療を行ってきました。
ところが、その「精神衛生法」も「精神保健法」、「精神保健福祉法」と名前を変えながら、福祉的な考え方を取り入れてきたのですが、その一定の効果はあったのだと思います。たとえば東京都八王子市では「精神病者」人口が3万人とも言われていますが、そのうちの約千人はこの20数年で「社会に飼い馴らされた」「精神病者」として「健常者」に迷惑がかからない、「健常者」の邪魔にならない存在とされてきています。「ほっとスペース八王子」の開設以来十四年経ちますが、「ほっとスペース八王子」を通過した仲間がおよそ百名はいることから演えきしての数です。
共同作業所や授産施設は僕たち「精神病者」へのある種の強制的な「社会適用」という形で、「社会に飼い馴らされた」存在に貶(おとし)めているのです。「ほっとスペース八王子」の十年誌にもそのことは触れました。しかし、それはあくまで「社会を『精神病者』に適応させる」ために仕方なく行ってきたのであって、「社会に飼い馴らされるために」活動をしてきたわけではありません。
しかし、新自由主義は「精神病者」を「社会に飼い馴らすこと」さえも辞めてしまったのです。「障害者自立支援法」や社会(職場、学園、地域、家庭など)に飼い馴らされない「精神病者」は「精神保健福祉法」で措置入院、医療保護入院などの強制入院で病院送りされます。単なる抵抗ではなく、暴力的に抵抗した場合すなわち手を出してしまった「精神病者」は「医療観察法」によって通常の裁判とは別の形で特殊な裁判が行われ、半永久的に社会保安施設「医療観察保護施設」に収容される運命となっているのです。
「障害者自立支援法」では「障害者」「知的障害者」「精神病者」は福祉サービスを受けるのだから自己負担は当然という考えです。これでは、いままで無理矢理薬を飲まされていた「精神病者」は頭がもうろうとして、いつも眠気が取れない薬を飲むことから開放されて、いつでも自由に自傷他害の恐れがある状態に放置されることになるのです。
いままでの日中の居場所(「ほっとスペース八王子」のような共同作業所など)も大量に潰されて行き場を失ってしまいます。お金がかかることは出来るだけやりませんと、毎年毎年社会保障予算を2,000億円削減する小泉改革がいまもなお続行されているからです。
現在ワーキングプア、非正規雇用労働者が労働人口の三割強を占めています。その大半がアメリカ発の金融恐慌の為に、タコ部屋(部屋代、寝具レンタル代、水光熱費、テレビ使用料などが天引きされわずかな生活費だけが手元に残るシステム)のような寮から追い出され、ホームレスにならざるを得ない状況になっています。こういう状況では秋葉原事件をもっともっと極悪化した事件が起きるのではないかと心配です。
そして、社会から見放された「精神病者」による事件が「健常者」並みに起きないことを祈るばかりです。しかし、それらは僕らからのほんのささやかな社会へのしっぺ返しへの序章です。
精神保健福祉法となって、八王子市では3万人居ると言われている「精神病者」のうち現在進行形では1%弱の200人程度しか福祉サービスと言われているものを利用できていません。しかも、その場合、「精神病者」としての社会への反逆の牙を抜かれ、従順でおとなしいモノ言わぬ、抵抗しない「精神病者」として生かされているに過ぎないのです。その1%弱の「精神病者」さえも八王子市は面倒が見れないというのであれば、何をか言わんやです。
そもそも、何故発病したのか。発病した個人に責任があるのか。発病が個人の性格や資質に問題があるかのように言うしたり顔の精神科医や施設職員は失せろ。そう言い切ることで己と「精神病者」との人間としての関わりをそもそも拒絶した態度を示しているんです。
社会福祉予算が削減され、「精神病者」の社会参加への道が閉ざされれば、僕ら「精神病者」は抜かれたかに見えた、鈍(なま)ってしまったかに見えた牙がいま研ぎ澄まされて輝きを増してくるのです。社会の片隅に追いやったのは誰なのでしょう。精神病院の病室に追いやったのは一体誰なのでしょう。発病した自分が悪いのではないのです。発病させた社会、システムにいまこそ「精神病者」の刃を突き付けようじゃないか。発病させた社会の中でしか僕らの病気は癒されないんのです。路頭に投げ出された非正規雇用の労働者と手を組み、格差社会を産み出した新自由主義にNO!を突き付けよう。
いままでは精神的に病んでしまって、そういう行為に走っていました。ところが現在は心の病気でもない人が当たり前のように秋葉原事件、集団自殺のような行為をしてしまう状況になっているような気がしてなりません。
ライシャワー事件以来「精神病者」に対して、治安対策、社会安全対策として精神科治療費用を無料にして、とにかく治療してくれと政府は「精神衛生法」を改定し、強制精神科医療を行ってきました。
ところが、その「精神衛生法」も「精神保健法」、「精神保健福祉法」と名前を変えながら、福祉的な考え方を取り入れてきたのですが、その一定の効果はあったのだと思います。たとえば東京都八王子市では「精神病者」人口が3万人とも言われていますが、そのうちの約千人はこの20数年で「社会に飼い馴らされた」「精神病者」として「健常者」に迷惑がかからない、「健常者」の邪魔にならない存在とされてきています。「ほっとスペース八王子」の開設以来十四年経ちますが、「ほっとスペース八王子」を通過した仲間がおよそ百名はいることから演えきしての数です。
共同作業所や授産施設は僕たち「精神病者」へのある種の強制的な「社会適用」という形で、「社会に飼い馴らされた」存在に貶(おとし)めているのです。「ほっとスペース八王子」の十年誌にもそのことは触れました。しかし、それはあくまで「社会を『精神病者』に適応させる」ために仕方なく行ってきたのであって、「社会に飼い馴らされるために」活動をしてきたわけではありません。
しかし、新自由主義は「精神病者」を「社会に飼い馴らすこと」さえも辞めてしまったのです。「障害者自立支援法」や社会(職場、学園、地域、家庭など)に飼い馴らされない「精神病者」は「精神保健福祉法」で措置入院、医療保護入院などの強制入院で病院送りされます。単なる抵抗ではなく、暴力的に抵抗した場合すなわち手を出してしまった「精神病者」は「医療観察法」によって通常の裁判とは別の形で特殊な裁判が行われ、半永久的に社会保安施設「医療観察保護施設」に収容される運命となっているのです。
「障害者自立支援法」では「障害者」「知的障害者」「精神病者」は福祉サービスを受けるのだから自己負担は当然という考えです。これでは、いままで無理矢理薬を飲まされていた「精神病者」は頭がもうろうとして、いつも眠気が取れない薬を飲むことから開放されて、いつでも自由に自傷他害の恐れがある状態に放置されることになるのです。
いままでの日中の居場所(「ほっとスペース八王子」のような共同作業所など)も大量に潰されて行き場を失ってしまいます。お金がかかることは出来るだけやりませんと、毎年毎年社会保障予算を2,000億円削減する小泉改革がいまもなお続行されているからです。
現在ワーキングプア、非正規雇用労働者が労働人口の三割強を占めています。その大半がアメリカ発の金融恐慌の為に、タコ部屋(部屋代、寝具レンタル代、水光熱費、テレビ使用料などが天引きされわずかな生活費だけが手元に残るシステム)のような寮から追い出され、ホームレスにならざるを得ない状況になっています。こういう状況では秋葉原事件をもっともっと極悪化した事件が起きるのではないかと心配です。
そして、社会から見放された「精神病者」による事件が「健常者」並みに起きないことを祈るばかりです。しかし、それらは僕らからのほんのささやかな社会へのしっぺ返しへの序章です。
精神保健福祉法となって、八王子市では3万人居ると言われている「精神病者」のうち現在進行形では1%弱の200人程度しか福祉サービスと言われているものを利用できていません。しかも、その場合、「精神病者」としての社会への反逆の牙を抜かれ、従順でおとなしいモノ言わぬ、抵抗しない「精神病者」として生かされているに過ぎないのです。その1%弱の「精神病者」さえも八王子市は面倒が見れないというのであれば、何をか言わんやです。
そもそも、何故発病したのか。発病した個人に責任があるのか。発病が個人の性格や資質に問題があるかのように言うしたり顔の精神科医や施設職員は失せろ。そう言い切ることで己と「精神病者」との人間としての関わりをそもそも拒絶した態度を示しているんです。
社会福祉予算が削減され、「精神病者」の社会参加への道が閉ざされれば、僕ら「精神病者」は抜かれたかに見えた、鈍(なま)ってしまったかに見えた牙がいま研ぎ澄まされて輝きを増してくるのです。社会の片隅に追いやったのは誰なのでしょう。精神病院の病室に追いやったのは一体誰なのでしょう。発病した自分が悪いのではないのです。発病させた社会、システムにいまこそ「精神病者」の刃を突き付けようじゃないか。発病させた社会の中でしか僕らの病気は癒されないんのです。路頭に投げ出された非正規雇用の労働者と手を組み、格差社会を産み出した新自由主義にNO!を突き付けよう。
徹夜が出来た
- 1984.08.21 Tuesday
- 闘病日誌
- 12:50
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- by 安兵衛
闘病日誌(23)
ー徹夜が出来たー
(84年8月) 安ベー
赤堀政夫さんへの面会
「八王子・赤堀さんと共に闘う会」は毎年夏休み(お盆休み)を利用して仙台刑務所の死刑囚・赤堀政夫さんへの面会行動をしていました。84年の夏は前年、赤堀政夫さんの再審棄却(静岡地裁)の差し戻しが決まった(東京高裁)後の夏でした。赤堀政夫さんの静岡への移管の問題も含めて、安否を伺いに行く予定でした。
いつものように安く旅費を上げるために、東京都の福祉労働者の個人の車を無料で借りて、東北自動車道路を北上します。帰りは、いつものように大洗の海水浴場で水浴びです。一泊三日(車中一泊)の小さな旅行です。
まだ未決の(もっとも既決だと死刑執行されていることになる)赤堀さんとは面会が出来ました。でも、面会が出来るのは、赤堀さんと文通をしている人でないと面会は出来ません。僕も前の年から文通を始めていました。「八王子・赤堀さんと共に闘う会」の参加会員は優しい心遣いの赤堀さんと面会出来るこの時期を心待ちにしていました。
車のトラブルで徹夜
さて、お役所仕事の刑務所は土曜日の午前中までしか面会出来ません。金曜日の夜に出発したワゴン車は、快適に東北自動車道路を走っていました。予定の時間通りに運転できて、土曜日の朝には仙台刑務所には余裕で着く見通しでした。
ところが、その車が深夜バーストを起したのです。運転していた唯一のドライバーは佐藤和喜雄さんでした。他のみんなは眠剤を飲んで熟睡状態です。外は真っ暗で豪雨が降り注ぎます。でも、佐藤さんは必死になって、全員を起し、車を安全な登坂車線上を移動させ、JAFの連絡先まで全員で力いっぱい車を押していったのです。早く移動させて、タイヤを交換させないと、仙台刑務所に土曜日の正午までに到着することが出来ないかも知れないからです。しかし、JAFに連絡できる電話ボックスまでかなりの距離がありました。雨にずぶ濡れになりながらの手で押しての移動だから、なかなか車は進みません。あまりの緊張に耐えられずに、中には泣き出す仲間もいました。雨で濡れているのか、涙で濡れているのか分からない状態で、全員が必死で車を押し続けました。押し続けながら、誰もがこのまま高速で走っている後ろから来る車に追突されるのではないかと気が気ではありません。一人の仲間が、後ろから来る車に赤色灯で合図をし、安全確認をしながらの作業です。
高速道路上で駐車させて車の中に入って寝ることも出来ません。真夜中だし追突の危険があるからです。車からずいぶん離れたところでずぶ濡れになりながら高速道路の端で全員待機していました。早朝、JAFが駆けつけ、すぐ近くのインターで車のタイヤを交換し、仙台に向かいました。
仙台刑務所に着いた時は正午過ぎ。
しかし、刑務所に着いた時はもう正午過ぎでした。
結局、赤堀さんとは会えず仕舞となったのです。仙台刑務所長に訳を話したのですが、受け入れてくれません。仕方なく、僕たちは赤堀さんに寄せ書きを書き、差し入れました。悔しさのために、参加者全員で刑務所の外に出て、高さ5メートルはある高い高い獄壁に向かって、抗議の怒りのシュプレヒコールをしました。
その後、寄せ書きに署名した僕たちはこの日をもって、赤堀さんとの面会禁止処分が言い渡されたのを知りました。静岡に移管された赤堀さんとも面会できないことでそれがわかったのです。寄せ書きに書かれた氏名を元に仙台刑務所が静岡刑務所にブラックリストを配布していたのです。
でも、この徹夜の経験が僕には幸いしたのです。自信がついたのです。退院後、僕は徹夜等したら、再発するという恐怖がありました。疲れないように騙しだまし生きていくしかないかと思っていました。それが、徹夜をすることが出来たのです。もちろん、それは仕事とか上司の命令だとかの嫌嫌ながらの徹夜ではありません。雨に濡れながら、真っ暗な中の徹夜は確かに嫌なものです。でも、それをしなければ、あの時のみんなが事故もなく赤堀さんに会えないと思っていたのです。僕は孤軍奮闘する佐藤さんを精一杯支えていました。何か自分にとって有意義なこと(「八王子・赤堀さんと共に闘う会」の会員の為に頑張っている佐藤さんを支える)をするためだから徹夜が出来たのだと思っています。
ー徹夜が出来たー
(84年8月) 安ベー
赤堀政夫さんへの面会
「八王子・赤堀さんと共に闘う会」は毎年夏休み(お盆休み)を利用して仙台刑務所の死刑囚・赤堀政夫さんへの面会行動をしていました。84年の夏は前年、赤堀政夫さんの再審棄却(静岡地裁)の差し戻しが決まった(東京高裁)後の夏でした。赤堀政夫さんの静岡への移管の問題も含めて、安否を伺いに行く予定でした。
いつものように安く旅費を上げるために、東京都の福祉労働者の個人の車を無料で借りて、東北自動車道路を北上します。帰りは、いつものように大洗の海水浴場で水浴びです。一泊三日(車中一泊)の小さな旅行です。
まだ未決の(もっとも既決だと死刑執行されていることになる)赤堀さんとは面会が出来ました。でも、面会が出来るのは、赤堀さんと文通をしている人でないと面会は出来ません。僕も前の年から文通を始めていました。「八王子・赤堀さんと共に闘う会」の参加会員は優しい心遣いの赤堀さんと面会出来るこの時期を心待ちにしていました。
車のトラブルで徹夜
さて、お役所仕事の刑務所は土曜日の午前中までしか面会出来ません。金曜日の夜に出発したワゴン車は、快適に東北自動車道路を走っていました。予定の時間通りに運転できて、土曜日の朝には仙台刑務所には余裕で着く見通しでした。
ところが、その車が深夜バーストを起したのです。運転していた唯一のドライバーは佐藤和喜雄さんでした。他のみんなは眠剤を飲んで熟睡状態です。外は真っ暗で豪雨が降り注ぎます。でも、佐藤さんは必死になって、全員を起し、車を安全な登坂車線上を移動させ、JAFの連絡先まで全員で力いっぱい車を押していったのです。早く移動させて、タイヤを交換させないと、仙台刑務所に土曜日の正午までに到着することが出来ないかも知れないからです。しかし、JAFに連絡できる電話ボックスまでかなりの距離がありました。雨にずぶ濡れになりながらの手で押しての移動だから、なかなか車は進みません。あまりの緊張に耐えられずに、中には泣き出す仲間もいました。雨で濡れているのか、涙で濡れているのか分からない状態で、全員が必死で車を押し続けました。押し続けながら、誰もがこのまま高速で走っている後ろから来る車に追突されるのではないかと気が気ではありません。一人の仲間が、後ろから来る車に赤色灯で合図をし、安全確認をしながらの作業です。
高速道路上で駐車させて車の中に入って寝ることも出来ません。真夜中だし追突の危険があるからです。車からずいぶん離れたところでずぶ濡れになりながら高速道路の端で全員待機していました。早朝、JAFが駆けつけ、すぐ近くのインターで車のタイヤを交換し、仙台に向かいました。
仙台刑務所に着いた時は正午過ぎ。
しかし、刑務所に着いた時はもう正午過ぎでした。
結局、赤堀さんとは会えず仕舞となったのです。仙台刑務所長に訳を話したのですが、受け入れてくれません。仕方なく、僕たちは赤堀さんに寄せ書きを書き、差し入れました。悔しさのために、参加者全員で刑務所の外に出て、高さ5メートルはある高い高い獄壁に向かって、抗議の怒りのシュプレヒコールをしました。
その後、寄せ書きに署名した僕たちはこの日をもって、赤堀さんとの面会禁止処分が言い渡されたのを知りました。静岡に移管された赤堀さんとも面会できないことでそれがわかったのです。寄せ書きに書かれた氏名を元に仙台刑務所が静岡刑務所にブラックリストを配布していたのです。
でも、この徹夜の経験が僕には幸いしたのです。自信がついたのです。退院後、僕は徹夜等したら、再発するという恐怖がありました。疲れないように騙しだまし生きていくしかないかと思っていました。それが、徹夜をすることが出来たのです。もちろん、それは仕事とか上司の命令だとかの嫌嫌ながらの徹夜ではありません。雨に濡れながら、真っ暗な中の徹夜は確かに嫌なものです。でも、それをしなければ、あの時のみんなが事故もなく赤堀さんに会えないと思っていたのです。僕は孤軍奮闘する佐藤さんを精一杯支えていました。何か自分にとって有意義なこと(「八王子・赤堀さんと共に闘う会」の会員の為に頑張っている佐藤さんを支える)をするためだから徹夜が出来たのだと思っています。
「八王子・赤堀さんと共に闘う会」に入会
- 1984.06.21 Thursday
- 闘病日誌
- 12:48
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- by 安兵衛
闘病日誌(22)
ー「八王子・赤堀さんと共に闘う会」に入会ー
(84年6月) 安ベー
最近の闘病日誌はその部分から読まれる方には「何処が闘病なのだ」と思われるような展開になってしまっていました。確かにそうなのです。要するに、闘病というのは僕の場合は、普通の人が社会の中でもまれる極々当たり前のことなのでした。でも、それが実際問題として闘病だと僕は思います。何か特別の事をすることではなく、普通の人がすることを、あるいはしてきたことを時間的にはかなり後追い的ですが、遅れて体験、体得することだと思っています。
30歳で発病した僕は、他の人がそれまでに体験し、体得してきたことを、あるいは自分自身が体験、体得してきたことも含めて、もう一度体験し直す、体得し直すことを出発点として新たな人間関係の中で体験し、体得することが闘病だったのです。
分かり易く言えば、リタイア(停年退職)した中高年者が第二の人生を辿っていくのと同じようなものかなと思います。第一の人生で体験、体得してきたものは参考にはなるが、新しい人間関係の中では、何の属性も持たないただの真っ裸の自分自身以外は何の意味も持たない、そういう感覚ではないかと思います。だから、退職後の新しい人間関係を結べない人は初老性うつ状態になったりするのも理解できるところです。
しかし、「精神病者」にとってはそんなに生易しいものではありません。幻聴や妄想癖、鬱状態など心の病を持ったまま第二の人生を迎えるということは「健常者」の想像に難いくらいの困難を伴います。それ自身、生きていく上でかなり辛くて大きなハンデでもあります。
「八王子・赤堀さんと共に闘う会」への加入が認められる
話は少し戻ります。23日間の完全黙秘が一朝一夕に出来たわけではありません。そのあたりの前史をお話しようと思います。
僕の入院していた患者同士で作った「闘う蟻の会」はかなり過激な考え方を持っていました。でも、考え方だけが過激なのであり、「シュプレヒコール」という会報でも過激なことを書いてはいましたが、実際に過激な行動をするわけではありません。でも、その過激な考え方が、誤解を生んで、その中心人物だった僕は「八王子・赤堀さんと共に闘う会」への加入がなかなか認められませんでした。
田川信氏などはK病院からの退院直前から入会が認められましたが、僕は保留状態が続いていました。「八王子・赤堀さんと共に闘う会」と「闘う蟻の会」の合流はこうやって時間がかかったのです。また、「闘う蟻の会」の他のメンバーは僕もそうなのですが、八王子から遠くに住んでいて、入会するにしてもそこに移動するまでの交通費と費やす時間が大変なのでした。
試験的に入会(保留)が認められていた僕は、持ち前の頑張り屋を発揮して、「八王子・赤堀さんと共に闘う会」のニュース作りや総会や各種集会の準備、八王子駅前での街頭宣伝、募金集めなどに奔走していました。その僕の熱意が当時の代表だった佐藤和喜雄さんに伝わり、遂に会員となることが出来ました。
赤堀政夫さんの優しさ
赤堀政夫さんは少し知的障害がある「精神障害者」でした。それで、若い頃から差別され、同じ年配の人とはつき合ってもらえず、いつも近所の小さな子供たちと一緒に遊んでいるような生活でした。いまだったらダイの大人が小さな子供たちと一緒に真昼間から遊んでいたりすると、あるいは遊ぼうとすると親達や近所の人に110番通報されて、パトカーに乗せられてしまいます。実際に、「八王子・赤堀さんと共に闘う会」の会員にそういう目に会った人もいたくらいですから。
子供と一緒に遊ぶことが出来る優しさを持った赤堀政夫さんが、島田(幼女誘拐殺人)事件の犯人にでっち上げられ、裁判所は最高裁も含めて死刑判決を維持したのです。
自分はいつ死刑の執行がされるか分からない恐怖の日々を暮らしながら、文通してくれる「精神病者」への優しい思いやりを忘れない赤堀さんはみんなの励みになっていたのです。
ー「八王子・赤堀さんと共に闘う会」に入会ー
(84年6月) 安ベー
最近の闘病日誌はその部分から読まれる方には「何処が闘病なのだ」と思われるような展開になってしまっていました。確かにそうなのです。要するに、闘病というのは僕の場合は、普通の人が社会の中でもまれる極々当たり前のことなのでした。でも、それが実際問題として闘病だと僕は思います。何か特別の事をすることではなく、普通の人がすることを、あるいはしてきたことを時間的にはかなり後追い的ですが、遅れて体験、体得することだと思っています。
30歳で発病した僕は、他の人がそれまでに体験し、体得してきたことを、あるいは自分自身が体験、体得してきたことも含めて、もう一度体験し直す、体得し直すことを出発点として新たな人間関係の中で体験し、体得することが闘病だったのです。
分かり易く言えば、リタイア(停年退職)した中高年者が第二の人生を辿っていくのと同じようなものかなと思います。第一の人生で体験、体得してきたものは参考にはなるが、新しい人間関係の中では、何の属性も持たないただの真っ裸の自分自身以外は何の意味も持たない、そういう感覚ではないかと思います。だから、退職後の新しい人間関係を結べない人は初老性うつ状態になったりするのも理解できるところです。
しかし、「精神病者」にとってはそんなに生易しいものではありません。幻聴や妄想癖、鬱状態など心の病を持ったまま第二の人生を迎えるということは「健常者」の想像に難いくらいの困難を伴います。それ自身、生きていく上でかなり辛くて大きなハンデでもあります。
「八王子・赤堀さんと共に闘う会」への加入が認められる
話は少し戻ります。23日間の完全黙秘が一朝一夕に出来たわけではありません。そのあたりの前史をお話しようと思います。
僕の入院していた患者同士で作った「闘う蟻の会」はかなり過激な考え方を持っていました。でも、考え方だけが過激なのであり、「シュプレヒコール」という会報でも過激なことを書いてはいましたが、実際に過激な行動をするわけではありません。でも、その過激な考え方が、誤解を生んで、その中心人物だった僕は「八王子・赤堀さんと共に闘う会」への加入がなかなか認められませんでした。
田川信氏などはK病院からの退院直前から入会が認められましたが、僕は保留状態が続いていました。「八王子・赤堀さんと共に闘う会」と「闘う蟻の会」の合流はこうやって時間がかかったのです。また、「闘う蟻の会」の他のメンバーは僕もそうなのですが、八王子から遠くに住んでいて、入会するにしてもそこに移動するまでの交通費と費やす時間が大変なのでした。
試験的に入会(保留)が認められていた僕は、持ち前の頑張り屋を発揮して、「八王子・赤堀さんと共に闘う会」のニュース作りや総会や各種集会の準備、八王子駅前での街頭宣伝、募金集めなどに奔走していました。その僕の熱意が当時の代表だった佐藤和喜雄さんに伝わり、遂に会員となることが出来ました。
赤堀政夫さんの優しさ
赤堀政夫さんは少し知的障害がある「精神障害者」でした。それで、若い頃から差別され、同じ年配の人とはつき合ってもらえず、いつも近所の小さな子供たちと一緒に遊んでいるような生活でした。いまだったらダイの大人が小さな子供たちと一緒に真昼間から遊んでいたりすると、あるいは遊ぼうとすると親達や近所の人に110番通報されて、パトカーに乗せられてしまいます。実際に、「八王子・赤堀さんと共に闘う会」の会員にそういう目に会った人もいたくらいですから。
子供と一緒に遊ぶことが出来る優しさを持った赤堀政夫さんが、島田(幼女誘拐殺人)事件の犯人にでっち上げられ、裁判所は最高裁も含めて死刑判決を維持したのです。
自分はいつ死刑の執行がされるか分からない恐怖の日々を暮らしながら、文通してくれる「精神病者」への優しい思いやりを忘れない赤堀さんはみんなの励みになっていたのです。
成田闘争での不当逮捕
- 1984.05.21 Monday
- 闘病日誌
- 12:47
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- by 安兵衛
闘病日誌(21)
成田闘争での不当逮捕
副工場長「花の係長」として赴任ー
(83年10月〜85年1月) 安ベー
幹部研修を終わって、僕は副工場長として、いわゆる「花の係長」となって、筆記具工場の敷地内に真新しく建てられた工場に赴任した。工場長は僕より年が若い件(くだん)の先輩の機械科専攻の彼。
工場内には筆記具工場から出向扱いで僕と彼を含めて正規社員7人。後の7人はパート労働者だ。僕が幹部研修を受けている間に、全従業員は一次請負会社の工場で半田付けや、ビス付けの技術研修を受けていたようだ。NECの産業用ロボットの制御盤のプリント基板の実装とロボット用モーターに部品(エンコーダー)を取り付ける作業だ。民生品ではなく、しかもロボットなので人身事故防止の為に品質管理がとても厳しく、半田作業も厳しいチェックが入った。僕が最初にやった仕事がこの半田チェックだった。何人ものパート労働者を泣かせてしまった。でも、その甲斐あってかなり優秀な半田付け作業の出来るパート労働者軍団が誕生した。
この時点から僕が工場長になるまでの話は、自慢話みたいになるし、闘病というほどの厳しさはなかったので省略する。ただ、前工場長が退職してから僕一人で30人近くの従業員で仕事を行うほど事業が拡大し、それを維持するための苦労は以後の僕の人生にとってちょっと自信を生み出し、もっと苦しい時の支えとなったことは間違いない。
さらに、一次請負会社が先を見越して自ら工場を神奈川県相模原市に建設し、僕らの工場の仕事をそっくりそのままその工場に移してしまって、仕事がなくなった時はちょっと大変だった。
当時はまだ服薬治療は継続していたので、眠れない夜はちょっと多目に飲んだりしてしのいでいた。学生運動を経験しているので営業的な活動や口八丁手八丁の交渉は大の得意だった。飛び込みで次々と関東圏内の電子関連会社を手当たり次第に当たっていった。そして、遂に同じNECの一次請負会社に行き当たって仕事をもらうことが出来た。
事件はその翌日に起きた。
成田空港反対運動で逮捕される
分裂病で苦しみながら、また工場長で仕事をしながら同じ入院仲間の患者会・「闘う蟻の会」で活動していた。
成田空港反対運動についても戦争反対運動の一環として参加していた。八五年当時、政府・空港公団は成田空港の二期工事を推進しようと二期工事周辺の農民への懐柔策を進めていた。成田用水がそれであった。農民たちにとって命より大切な水を空港公団は懐柔策に使ってきたのだ。
成田空港の建設に反対している地元の農民たちは、確かに党派やいろんな市民団体、労働組合の支援を受けている。しかし、地元農民の自力自闘の考え方に僕は共感していた。自分たちの願いを代議士などの誰かにお願いする、というのではなく、自らの身体で、自らの考えで土地を守り、政府による一方的な土地取り上げに反対して立ち上がっていたのだ。政府の力づくに拠る土地取り上げを許していれば、戦前の軍隊の拠る土地取り上げの再現である。
政府・空港公団は反対運動の沈静化の為に、金に糸目をつけず、農民にとって一番大事な水を餌ににした卑怯な成田用水工事に反対する闘争に僕は参加した。そして、逮捕されてしまった。まさか逮捕されるとは思ってもいなかった。別に逮捕されるようなデモでもなかったのだが、警備していた警察機動隊が毎日毎晩の警備で疲労困憊していて、浮き足立っていた。その警察機動隊の挑発でデモ隊の隊列が水田の畦道のような細い道路上で乱れてしまい、田んぼの中に落とされたり、川の中に落とされたりしたデモ参加者の一団が全員逮捕されてしまったのだ。僕はその一団にいて、田んぼの中に落とされ、泥だらけの状態にされて逮捕されてしまった。
学生運動の経験もあって長い勾留
20人近い逮捕者の中で僕は一番遅くまで勾留された。いわゆる二三日間勾留されたのだ。その間、救援センターが向精神薬の差し入れをしてくれた。
僕は前日の数ヶ月かけてやっとの思いで取れた仕事のこと、自分が工場長をしている職場のことが心配だった。逮捕されたことで、職場を追われることになることへの心配もあった。でも、無実の死刑囚・赤堀政夫氏の不撓不屈のたたかう様を思い出した。たった一人で獄中を当時で三一年間毎日死刑執行の恐怖の中で生き抜いてきているのだ。自力自闘は成田の農民だけではない、同じ「精神障害者」の中にも赤堀氏のようにたたかっているのだ。この思いが僕をしっかりとさせたのだ。差し入れられた薬をいつでも飲める状態にしておいて、飲まないで勾留生活を送ることが出来るか、挑戦してみた。意味のない取調べや、戦争反対運動はやめろという取調官の脅しには耳も傾けず、雑談にも馬耳東風を決め込んで無視した。取調官とのニラメッコにしても真剣に応じていると疲れるので、眠たい時は目をつぶって眠ったりする時もあった。
朝から深夜まで毎日続く取調べに、いい加減疲れて眠りたくなるのは当たり前である。そういう状態であったので、緊張は確かにあるが、眠れない状態ではなかった。夜も向精神薬がなくても十分に寝ることが出来た。
この経験が僕には大きかった。一緒に逮捕されていたおタケさんは三日で釈放されたが、それ以降「闘う蟻の会」には顔を見せなくなった。
僕は二三日間、いわゆる完全黙秘を貫いたのだ。職場のことや、釈放されてからのことも心配ではあったが、僕は精神病院に入院して、本当に見たくない悲惨な自分を経験してきた。いわばどん底の生活を体験してきたので、たとえ職場から追放されてもまた一からやり直せば良いや、と完璧に開き直れたのだ。しかも薬抜きで貫いたのだ。気負いはなかった。淡々と勾留生活を送ることが出来たのだ。確かに、逮捕されること、取り調べはあまり良いもんではない、でも、それを通して自分自身が更に強くなったことを実感できたのだ。
もちろん、こういう経験を全ての「精神病者」がやるべきだと言いたいのではない。また、勾留された時に、向精神薬を飲ますに頑張るべきだと言いたいのではない。自分自身の目標に少しでも近づくこと、ちょっと苦しいのをちょっとだけ我慢することも良いのではないかと言いたいのだ。そして、そのペースは人それぞれだ。自分のペースでぼちぼちと進もうではないか。
成田闘争での不当逮捕
副工場長「花の係長」として赴任ー
(83年10月〜85年1月) 安ベー
幹部研修を終わって、僕は副工場長として、いわゆる「花の係長」となって、筆記具工場の敷地内に真新しく建てられた工場に赴任した。工場長は僕より年が若い件(くだん)の先輩の機械科専攻の彼。
工場内には筆記具工場から出向扱いで僕と彼を含めて正規社員7人。後の7人はパート労働者だ。僕が幹部研修を受けている間に、全従業員は一次請負会社の工場で半田付けや、ビス付けの技術研修を受けていたようだ。NECの産業用ロボットの制御盤のプリント基板の実装とロボット用モーターに部品(エンコーダー)を取り付ける作業だ。民生品ではなく、しかもロボットなので人身事故防止の為に品質管理がとても厳しく、半田作業も厳しいチェックが入った。僕が最初にやった仕事がこの半田チェックだった。何人ものパート労働者を泣かせてしまった。でも、その甲斐あってかなり優秀な半田付け作業の出来るパート労働者軍団が誕生した。
この時点から僕が工場長になるまでの話は、自慢話みたいになるし、闘病というほどの厳しさはなかったので省略する。ただ、前工場長が退職してから僕一人で30人近くの従業員で仕事を行うほど事業が拡大し、それを維持するための苦労は以後の僕の人生にとってちょっと自信を生み出し、もっと苦しい時の支えとなったことは間違いない。
さらに、一次請負会社が先を見越して自ら工場を神奈川県相模原市に建設し、僕らの工場の仕事をそっくりそのままその工場に移してしまって、仕事がなくなった時はちょっと大変だった。
当時はまだ服薬治療は継続していたので、眠れない夜はちょっと多目に飲んだりしてしのいでいた。学生運動を経験しているので営業的な活動や口八丁手八丁の交渉は大の得意だった。飛び込みで次々と関東圏内の電子関連会社を手当たり次第に当たっていった。そして、遂に同じNECの一次請負会社に行き当たって仕事をもらうことが出来た。
事件はその翌日に起きた。
成田空港反対運動で逮捕される
分裂病で苦しみながら、また工場長で仕事をしながら同じ入院仲間の患者会・「闘う蟻の会」で活動していた。
成田空港反対運動についても戦争反対運動の一環として参加していた。八五年当時、政府・空港公団は成田空港の二期工事を推進しようと二期工事周辺の農民への懐柔策を進めていた。成田用水がそれであった。農民たちにとって命より大切な水を空港公団は懐柔策に使ってきたのだ。
成田空港の建設に反対している地元の農民たちは、確かに党派やいろんな市民団体、労働組合の支援を受けている。しかし、地元農民の自力自闘の考え方に僕は共感していた。自分たちの願いを代議士などの誰かにお願いする、というのではなく、自らの身体で、自らの考えで土地を守り、政府による一方的な土地取り上げに反対して立ち上がっていたのだ。政府の力づくに拠る土地取り上げを許していれば、戦前の軍隊の拠る土地取り上げの再現である。
政府・空港公団は反対運動の沈静化の為に、金に糸目をつけず、農民にとって一番大事な水を餌ににした卑怯な成田用水工事に反対する闘争に僕は参加した。そして、逮捕されてしまった。まさか逮捕されるとは思ってもいなかった。別に逮捕されるようなデモでもなかったのだが、警備していた警察機動隊が毎日毎晩の警備で疲労困憊していて、浮き足立っていた。その警察機動隊の挑発でデモ隊の隊列が水田の畦道のような細い道路上で乱れてしまい、田んぼの中に落とされたり、川の中に落とされたりしたデモ参加者の一団が全員逮捕されてしまったのだ。僕はその一団にいて、田んぼの中に落とされ、泥だらけの状態にされて逮捕されてしまった。
学生運動の経験もあって長い勾留
20人近い逮捕者の中で僕は一番遅くまで勾留された。いわゆる二三日間勾留されたのだ。その間、救援センターが向精神薬の差し入れをしてくれた。
僕は前日の数ヶ月かけてやっとの思いで取れた仕事のこと、自分が工場長をしている職場のことが心配だった。逮捕されたことで、職場を追われることになることへの心配もあった。でも、無実の死刑囚・赤堀政夫氏の不撓不屈のたたかう様を思い出した。たった一人で獄中を当時で三一年間毎日死刑執行の恐怖の中で生き抜いてきているのだ。自力自闘は成田の農民だけではない、同じ「精神障害者」の中にも赤堀氏のようにたたかっているのだ。この思いが僕をしっかりとさせたのだ。差し入れられた薬をいつでも飲める状態にしておいて、飲まないで勾留生活を送ることが出来るか、挑戦してみた。意味のない取調べや、戦争反対運動はやめろという取調官の脅しには耳も傾けず、雑談にも馬耳東風を決め込んで無視した。取調官とのニラメッコにしても真剣に応じていると疲れるので、眠たい時は目をつぶって眠ったりする時もあった。
朝から深夜まで毎日続く取調べに、いい加減疲れて眠りたくなるのは当たり前である。そういう状態であったので、緊張は確かにあるが、眠れない状態ではなかった。夜も向精神薬がなくても十分に寝ることが出来た。
この経験が僕には大きかった。一緒に逮捕されていたおタケさんは三日で釈放されたが、それ以降「闘う蟻の会」には顔を見せなくなった。
僕は二三日間、いわゆる完全黙秘を貫いたのだ。職場のことや、釈放されてからのことも心配ではあったが、僕は精神病院に入院して、本当に見たくない悲惨な自分を経験してきた。いわばどん底の生活を体験してきたので、たとえ職場から追放されてもまた一からやり直せば良いや、と完璧に開き直れたのだ。しかも薬抜きで貫いたのだ。気負いはなかった。淡々と勾留生活を送ることが出来たのだ。確かに、逮捕されること、取り調べはあまり良いもんではない、でも、それを通して自分自身が更に強くなったことを実感できたのだ。
もちろん、こういう経験を全ての「精神病者」がやるべきだと言いたいのではない。また、勾留された時に、向精神薬を飲ますに頑張るべきだと言いたいのではない。自分自身の目標に少しでも近づくこと、ちょっと苦しいのをちょっとだけ我慢することも良いのではないかと言いたいのだ。そして、そのペースは人それぞれだ。自分のペースでぼちぼちと進もうではないか。
エーリッヒ・フロムとの出会い
- 1984.03.21 Wednesday
- 闘病日誌
- 12:45
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- by 安兵衛
闘病日誌(20)
エーリッヒ・フロムとの出会い
幹部候補生としての研修
(82年1月〜83年10月) 安ベー
採用された明くる年に僕は幹部候補生として研修を受けることになった。研修内容は要するに一般教養と道徳教育みたいなものだった。そこの社長が宗教色のない日本型道徳普及運動(従って神道の流れでもあるが)の活動家で、その運動体が運営する大学キャンパスにある研究機関に合宿研修をすることになったのだ。教養のある、道徳心を持った心優しく、いわゆる徳の高い幹部を育成しようということだった。この会社の幹部候補生は必ず受けることになっていて、新設の電子部門の責任者である青年も前年に研修を受けさせられたそうである。
2週間の予定で研修を受けたのだが、この研修をめぐって反戦運動をしていた当時の仲間や、「闘う蟻の会」のおタケさんなどは「絶対に受けるな」と脅迫めいたアドバイスがあった。でも、僕はそんな柔な考え方では精神分裂病を克服出来ないという自信があったので、受けることにした。実際に、僕としては「精神病」を患った原因などしっかりと自分を見つめる良い機会に巡り会えたと思っている。
200〜300人近くいる研修生のカリキュラムの中で興味のあるものだけを受けて、後は出席簿にサインだけして講義室を途中で抜け出し、そこの大学の図書館に行って、面白そうな書物を漁(あさ)った。読んだのはフロイト左派、実存主義的精神分析医と言われている「エーリッヒ・フロム」選集やアウシュビッツに収容されていた体験を著した「夜と霧」の著者であり、やはり実存主義的精神分析医の「フランクル」の著作を貪るように読んだ。
フランスからの独立を勝ち取ったアルジェリア解放運動の思想的な指導者の一人やはり実存主義的精神分析医フランツ・ファノンの選集なども読み漁った。
フロムを読んで
大学時代、教養部の社会学の講義でフロムの「自由からの逃走」のレポート提出が宿題であったこともあった。でもその時期に読んだ同じ本が、全く違う感想を持たせてくれた。人間の心理的成長と社会の心理的成長とをアナロジーしているところがよく理解できた。
それよりフロムを読んで思ったのは、30歳にもなって青年期のままで成長が止まって混乱している自分を発見することが出来た。それは組織の中で自分が得意とする分野では自分自身を発揮しようとする自分と、不得手な分野ではただ言われたことだけをソツなくやり通す自分とが衝突し、うまくコントロールできなくなっていた自分を。
フロムは思春期と壮年期に発病が多いと著していた。壮年期とは社会生活を営み始めて、もう一皮向けて人間的に更に成長する期間と定義していたように記憶している。僕はこの時期に社会的な広がりを持った経験を得る機会がなかったのだ。獄中にいたこと、釈放された後も、反戦運動を続けていたことでかなり狭い社会・人間関係しか結べなかったのだと思う。七〇年安保・沖縄闘争の広がりが遠のき、運動自身も狭いものになっていたことも遠因ではあろうが、原因の一つだろうと思う。何と言っても拘置所から釈放されてすぐに、精神が普通はまだ不安定な時期に1日の睡眠時間が数時間という過酷なスケジュールで運動に身を投じていたことが何より大きな発病の原因だったと自分では思った。
そして、退院してからの自分の人生を今一度やり直す覚悟が必要だということを決意したのだ。そうは言っても簡単なことではない。この新しい職場でも消え入りたくなることが何度もあった。もう次の日には出勤したくないと思うような恥ずかしいことをしたこともあった。でも、それでも出勤しないことには生活費が得られないのだ。それが強制力となって自分を奮い立たせたのだ。また、今ひとつは自分の人生をやり直すこと、その為には自分の恥かしい思いなどたいしたことではないと自分を言い聞かせて生活していたのだ。
エーリッヒ・フロムとの出会い
幹部候補生としての研修
(82年1月〜83年10月) 安ベー
採用された明くる年に僕は幹部候補生として研修を受けることになった。研修内容は要するに一般教養と道徳教育みたいなものだった。そこの社長が宗教色のない日本型道徳普及運動(従って神道の流れでもあるが)の活動家で、その運動体が運営する大学キャンパスにある研究機関に合宿研修をすることになったのだ。教養のある、道徳心を持った心優しく、いわゆる徳の高い幹部を育成しようということだった。この会社の幹部候補生は必ず受けることになっていて、新設の電子部門の責任者である青年も前年に研修を受けさせられたそうである。
2週間の予定で研修を受けたのだが、この研修をめぐって反戦運動をしていた当時の仲間や、「闘う蟻の会」のおタケさんなどは「絶対に受けるな」と脅迫めいたアドバイスがあった。でも、僕はそんな柔な考え方では精神分裂病を克服出来ないという自信があったので、受けることにした。実際に、僕としては「精神病」を患った原因などしっかりと自分を見つめる良い機会に巡り会えたと思っている。
200〜300人近くいる研修生のカリキュラムの中で興味のあるものだけを受けて、後は出席簿にサインだけして講義室を途中で抜け出し、そこの大学の図書館に行って、面白そうな書物を漁(あさ)った。読んだのはフロイト左派、実存主義的精神分析医と言われている「エーリッヒ・フロム」選集やアウシュビッツに収容されていた体験を著した「夜と霧」の著者であり、やはり実存主義的精神分析医の「フランクル」の著作を貪るように読んだ。
フランスからの独立を勝ち取ったアルジェリア解放運動の思想的な指導者の一人やはり実存主義的精神分析医フランツ・ファノンの選集なども読み漁った。
フロムを読んで
大学時代、教養部の社会学の講義でフロムの「自由からの逃走」のレポート提出が宿題であったこともあった。でもその時期に読んだ同じ本が、全く違う感想を持たせてくれた。人間の心理的成長と社会の心理的成長とをアナロジーしているところがよく理解できた。
それよりフロムを読んで思ったのは、30歳にもなって青年期のままで成長が止まって混乱している自分を発見することが出来た。それは組織の中で自分が得意とする分野では自分自身を発揮しようとする自分と、不得手な分野ではただ言われたことだけをソツなくやり通す自分とが衝突し、うまくコントロールできなくなっていた自分を。
フロムは思春期と壮年期に発病が多いと著していた。壮年期とは社会生活を営み始めて、もう一皮向けて人間的に更に成長する期間と定義していたように記憶している。僕はこの時期に社会的な広がりを持った経験を得る機会がなかったのだ。獄中にいたこと、釈放された後も、反戦運動を続けていたことでかなり狭い社会・人間関係しか結べなかったのだと思う。七〇年安保・沖縄闘争の広がりが遠のき、運動自身も狭いものになっていたことも遠因ではあろうが、原因の一つだろうと思う。何と言っても拘置所から釈放されてすぐに、精神が普通はまだ不安定な時期に1日の睡眠時間が数時間という過酷なスケジュールで運動に身を投じていたことが何より大きな発病の原因だったと自分では思った。
そして、退院してからの自分の人生を今一度やり直す覚悟が必要だということを決意したのだ。そうは言っても簡単なことではない。この新しい職場でも消え入りたくなることが何度もあった。もう次の日には出勤したくないと思うような恥ずかしいことをしたこともあった。でも、それでも出勤しないことには生活費が得られないのだ。それが強制力となって自分を奮い立たせたのだ。また、今ひとつは自分の人生をやり直すこと、その為には自分の恥かしい思いなどたいしたことではないと自分を言い聞かせて生活していたのだ。
数百人の工場仲間と一緒の生活
- 1984.02.21 Tuesday
- 闘病日誌
- 12:44
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- by 安兵衛
闘病日誌(19)
数百人の工場仲間と一緒の生活
(勤務期間81年10月〜90年5月) 安ベー
インク作りは白衣がすぐにいろんな色に染まっていった。化学屋さんの白衣は大体が酸などでボロボロになるか、いろんな色の薬品でカラフルになるが、ここでは染料屋さんみたいな白衣になってしまっていた。もっともインク作りだけの生活ではなかった。筆記具のメーカーなので、昔からの「ペン先」「丸ペン」「さじペン」「Gペン」「イラストペン」などの「鋼ペン先」から「ボールペン」「サインペン」「蛍光ペン」「マーカーペン」、さらにこのメーカーがライバル社に先駆けて製造したのが「線引きペン」と言われるものだ。とにかくあらゆる筆記具を製造していた。忙しい時は製造現場に動員された。
しかし鋼ペン先部門にはお呼びはかからない。ここでは鋼板からの打抜き、焼入れ、イリジウム、白金との合金製造、溶着などかなり専門的な作業が自動機械を使って行われていて、手馴れた職人たちが機械を点検しつつ作業をしていた。僕みたいな素人の入る余地はない。出来上がった鋼ペン先の梱包作業をパートタイマーの女性たちが白手袋をつけて行っていた。この棟には「鋼ペン先」製造機だけでなく、旋盤、フライス盤、ボール盤など各種工作機械がずらりと並んでいた。この工作機械を使って職人たちが自動製造機やその治工具などを器用に造っていた。
ボールペン先を製造する棟は自動製造機がずらりと並んでいて、その機械の調子を職工たちが点検するという作業だ。一際大きな棟には、この筆記具工場の大多数の職工たちやパートタイマーがいた。各筆記具にそれぞれに応じたインクの注入を行う機械、各筆記具のペン先を軸に入れる機械、各筆記具の組立て機械、軸に銘板を刻印する機械、さらに出来上がった各筆記具の品質検査(筆記具だから書き味テスト、ボタやカスレのテストなどをするコーナーなどがあった)や梱包のコーナーなどがあった。よく手伝いに行ったのは書き味テストのコーナーで、一日書き味テストを手で行うのだ。
パートタイマーの女性たちとの楽しい毎日
この作業は工場の中でも一番人の数が多かった。筆記具一つ一つを手にとって、書き味テストをするので仕方がない。機械でも行うのだが、人間の手の方が早いし、確実だ。4〜5本まとめて握り白い紙の上を走らせる。その中で書き味の悪いのをはじいていくのだ。この作業はパートタイマーの女性たちとおしゃべりしながら行うのだ。近所の団地のお母さんたちが一番多い。井戸端会議のようなものだ。僕の場合は聞かれたことを答えるだけだが、彼らの話を聞いているだけで面白い。話題はテレビドラマ、子供、お父さん、タレントのスキャンダルなどで毎日尽きない。
助っ人の僕ら(インク部門には僕のすぐ後に若い大卒者が開発室専属として採用され、二名で手伝いをしていた)の場合は時々抜け出して、他の棟に遊びに行っても誰からもお小言を食らわないようになっていた。遊びに行くところは管財課、貿易関連会社、電算室の棟だ。管財課は綺麗な女性が端末を扱っていて、よく遊びに行っていた。貿易関連会社の方にも若い独身の女性がいてここにもよく遊びに行っていた。電算室には大分出身の頭が薄くなった男性が室長で、この男性がこの工場のシステムを一人で作成したという自負があって、かなりプライドの高い男性だったが、同じ九州出身ということなど僕をかってくれていたこともあって話が面白くて良く遊びに行っていた。
男性寮にはよく遊びにも行った
工場敷地内には男性寮があって、僕も入寮しておけばよかったと、後で後悔した寮だ。一部屋16畳くらいの広さで、冷暖房つき、もちろんお風呂つきだ。一寸以前には工場敷地内に大浴場もあったらしいが、いまはない。5部屋あって、昔はこの一部屋ごとに8人くらい押し込まれていたそうだ。言わば「タコ部屋」だ。
女性寮は、工場の敷地内にはなく、工場近くにある専務兼貿易関連会社社長宅の隣の2階建てのアパートがそうだ。また、工場の近くに一戸建ての社宅もあって、新設予定の電子部門の若い責任者や経理担当の職員やボールペン先製造責任者家族も入居していた。この筆記具メーカーは工場や調布駅の近くのあちこちに資産があって、土地やビルの賃貸業もやっていた。テニスコートは後で大手のスーパーマーケットに賃貸し、野球場は某自動車メーカーの社宅マンションに変わってしまった。
寮には時々遊びに行ったり、泊まったりしていた。特に、飲み会の後などはよく泊まっていた。寮に入っていたのはほとんどが駒ケ根工場のある駒ケ根市の在住者だった。彼らは本社工場に勤務した後、駒ケ根工場勤務となるのだ。女子寮には伊豆下田在住者が多かった。これも何か理由があったのだが覚えていない。ちょうど工場の中心に位置したところに茶室があって、ここにはお客人を接待したり、茶道や華道のお稽古事のある時に使われていた。当然茶室にはすごく立派な庭もあった。
時々は休日なども、差し入れを持って寮に行って寮生とも一緒に遊んだりして、みんなから好感を持たれていった。僕のような学歴の人がこんな工場には来なかっただろうし、彼らとも会えなかっただろうと良い悪いは別にして、お世辞も出るくらいの関係が作られるようになった。このまま普通の生活をしている分には何とかやれそうな、そして実際に何とかやれた数年だった。それをかく乱したのは病気と言うよりはやはり僕の考え方、生き方を表に出し始めた時からだった。考え方や生き方が普通の人とちょっと違うことから来る軋轢やそこから発生するストレスが心理的な安定を保つことにかなり苦労したのだ。
数百人の工場仲間と一緒の生活
(勤務期間81年10月〜90年5月) 安ベー
インク作りは白衣がすぐにいろんな色に染まっていった。化学屋さんの白衣は大体が酸などでボロボロになるか、いろんな色の薬品でカラフルになるが、ここでは染料屋さんみたいな白衣になってしまっていた。もっともインク作りだけの生活ではなかった。筆記具のメーカーなので、昔からの「ペン先」「丸ペン」「さじペン」「Gペン」「イラストペン」などの「鋼ペン先」から「ボールペン」「サインペン」「蛍光ペン」「マーカーペン」、さらにこのメーカーがライバル社に先駆けて製造したのが「線引きペン」と言われるものだ。とにかくあらゆる筆記具を製造していた。忙しい時は製造現場に動員された。
しかし鋼ペン先部門にはお呼びはかからない。ここでは鋼板からの打抜き、焼入れ、イリジウム、白金との合金製造、溶着などかなり専門的な作業が自動機械を使って行われていて、手馴れた職人たちが機械を点検しつつ作業をしていた。僕みたいな素人の入る余地はない。出来上がった鋼ペン先の梱包作業をパートタイマーの女性たちが白手袋をつけて行っていた。この棟には「鋼ペン先」製造機だけでなく、旋盤、フライス盤、ボール盤など各種工作機械がずらりと並んでいた。この工作機械を使って職人たちが自動製造機やその治工具などを器用に造っていた。
ボールペン先を製造する棟は自動製造機がずらりと並んでいて、その機械の調子を職工たちが点検するという作業だ。一際大きな棟には、この筆記具工場の大多数の職工たちやパートタイマーがいた。各筆記具にそれぞれに応じたインクの注入を行う機械、各筆記具のペン先を軸に入れる機械、各筆記具の組立て機械、軸に銘板を刻印する機械、さらに出来上がった各筆記具の品質検査(筆記具だから書き味テスト、ボタやカスレのテストなどをするコーナーなどがあった)や梱包のコーナーなどがあった。よく手伝いに行ったのは書き味テストのコーナーで、一日書き味テストを手で行うのだ。
パートタイマーの女性たちとの楽しい毎日
この作業は工場の中でも一番人の数が多かった。筆記具一つ一つを手にとって、書き味テストをするので仕方がない。機械でも行うのだが、人間の手の方が早いし、確実だ。4〜5本まとめて握り白い紙の上を走らせる。その中で書き味の悪いのをはじいていくのだ。この作業はパートタイマーの女性たちとおしゃべりしながら行うのだ。近所の団地のお母さんたちが一番多い。井戸端会議のようなものだ。僕の場合は聞かれたことを答えるだけだが、彼らの話を聞いているだけで面白い。話題はテレビドラマ、子供、お父さん、タレントのスキャンダルなどで毎日尽きない。
助っ人の僕ら(インク部門には僕のすぐ後に若い大卒者が開発室専属として採用され、二名で手伝いをしていた)の場合は時々抜け出して、他の棟に遊びに行っても誰からもお小言を食らわないようになっていた。遊びに行くところは管財課、貿易関連会社、電算室の棟だ。管財課は綺麗な女性が端末を扱っていて、よく遊びに行っていた。貿易関連会社の方にも若い独身の女性がいてここにもよく遊びに行っていた。電算室には大分出身の頭が薄くなった男性が室長で、この男性がこの工場のシステムを一人で作成したという自負があって、かなりプライドの高い男性だったが、同じ九州出身ということなど僕をかってくれていたこともあって話が面白くて良く遊びに行っていた。
男性寮にはよく遊びにも行った
工場敷地内には男性寮があって、僕も入寮しておけばよかったと、後で後悔した寮だ。一部屋16畳くらいの広さで、冷暖房つき、もちろんお風呂つきだ。一寸以前には工場敷地内に大浴場もあったらしいが、いまはない。5部屋あって、昔はこの一部屋ごとに8人くらい押し込まれていたそうだ。言わば「タコ部屋」だ。
女性寮は、工場の敷地内にはなく、工場近くにある専務兼貿易関連会社社長宅の隣の2階建てのアパートがそうだ。また、工場の近くに一戸建ての社宅もあって、新設予定の電子部門の若い責任者や経理担当の職員やボールペン先製造責任者家族も入居していた。この筆記具メーカーは工場や調布駅の近くのあちこちに資産があって、土地やビルの賃貸業もやっていた。テニスコートは後で大手のスーパーマーケットに賃貸し、野球場は某自動車メーカーの社宅マンションに変わってしまった。
寮には時々遊びに行ったり、泊まったりしていた。特に、飲み会の後などはよく泊まっていた。寮に入っていたのはほとんどが駒ケ根工場のある駒ケ根市の在住者だった。彼らは本社工場に勤務した後、駒ケ根工場勤務となるのだ。女子寮には伊豆下田在住者が多かった。これも何か理由があったのだが覚えていない。ちょうど工場の中心に位置したところに茶室があって、ここにはお客人を接待したり、茶道や華道のお稽古事のある時に使われていた。当然茶室にはすごく立派な庭もあった。
時々は休日なども、差し入れを持って寮に行って寮生とも一緒に遊んだりして、みんなから好感を持たれていった。僕のような学歴の人がこんな工場には来なかっただろうし、彼らとも会えなかっただろうと良い悪いは別にして、お世辞も出るくらいの関係が作られるようになった。このまま普通の生活をしている分には何とかやれそうな、そして実際に何とかやれた数年だった。それをかく乱したのは病気と言うよりはやはり僕の考え方、生き方を表に出し始めた時からだった。考え方や生き方が普通の人とちょっと違うことから来る軋轢やそこから発生するストレスが心理的な安定を保つことにかなり苦労したのだ。
遂にこの職場から排除されることに
- 1984.01.21 Saturday
- 闘病日誌
- 12:42
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- by 安兵衛
闘病日誌(18)
遂にこの職場から排除されることに
(勤務期間81年10月〜90年5月) 安ベー
何とかうまくやっていっていると主観的に思っていたのが大間違いだった。僕の昼休みの過ごし方がやはり問題となっていたのだ。女性パートタイマーから、工場長に告げ口があったのだろう、ある日突然僕への何の断りもなく(当たり前だが)工場の向かいのマンションの玄関に鍵がかかるようになった。僕は昼休み中は眠むりたいし、そのためにマンションの一室に入りたかったので何とか開けてくれるように呼び鈴を鳴らしたが、中に居るはずの女性たちは僕の鳴らす呼び鈴を無視した。
その一室が一階だったことが災いしたのだが、頭に来た僕は庭の方に回ってベランダから部屋内に入った。当たり前だが、これがまずかったのだ。そんなことがあった次の日はベランダ側の窓、扉も締められて、何処からも入ることが出来なくなった。それと、工場長から「君はマンションの部屋にベランダから入ったそうだが、何だと思っているのか」と叱責を受けた。しかし、僕は「昼休みを何処で過ごそうと構わないではないか」と抗弁した。
しばらくして後、社長から呼び出しがあった。「君は工場長と言い争ったそうだが、工場長は君と一緒だと仕事が出来ない。工場長が辞めるか君が辞めるかのどちらかだと言っているが」と話された。僕は、その時点では自分が悪いとは全く思っていなかったので、「僕は辞めるつもりはありません」と答えた。「そうか仕方がないな」と社長は条件を出してきた。「君が辞めたら、本来だったら退職金などまだ出ないのだけれど、一か月分の退職金を支払いましょう」と言われたが、「解雇なら予告手当てが出るのは当たり前だし、今回は解雇でもなく退職勧奨なのだから、一ヶ月分出るのも当然だ。更に一時金の査定期間はクリアしているので年末一時金支給時にはその支払いもお願いします」と要求した。この要求が通ったのだ。
早速、次の職場を探し求める
要求が通ったからといってそれで満足しているわけにはいかない。それと、主治医にこの件を話して、昼になると眠くなるようになったことは朝、服用する薬の量がその当時の僕にはもはや多すぎる量ではないかと、薬の量をまた減らしてもらった。そして生活のためにすぐに次の職を求めて、住んでいた近くの三鷹職安に行った。優しそうな職安の係員が僕の履歴に注目して、すぐに良さそうなのを見つけてくれた。調布の筆記具メーカーのインクの製造・開発要員だった。大学時代に化学を専攻していたので、募集要項はクリアしていた。
面接を受けに行ったのだが、調布でもかなり大きなメーカーだと思った。広々とした野球場はあるし、テニスコートもある。工場の敷地内には調布でも有数の桜名所の大きな桜並木があるし、事務棟以外にも工場棟がいくつもある。どの建物も天井の高い平屋建ての建物だ。工場敷地が広々としている。話を聞くと戦前は陸軍のご用達のペン先メーカーで、「お茶」、「お花」、「テニス」などのお稽古ごとを習えるので、結婚適齢期のお嬢さんの花嫁学校だと言われてきたらしい。今でもGペンやイラストレータ必携のイラストペンなどを製造している。
面接では総務課長と開発室長が立会い、前職の町工場の制御盤屋さんにその場で連絡をとり、真面目な人間だというコメントを得たようだった。ライバル会社も製造ロボットを開発し始めているのでその会社も電子部門を関連会社として設立するということらしかった。「翌年新設する電子会社に採用後移ることになるかもしれないが、前職から言っても経験がありそうだから、移動してもらえるかな」と言われたが、採用してもらえるのであれば何でもするつもりでいたので即OKと返事をした。大学の卒業証明書を提出することを前提に即決で採用となり、あくる日から仕事をすることになった。
すぐにインク製造現場に
インク開発室に通され、そこでインクの処方箋みたいなものを見せられて調合するという仕事だ。薬品の計量の仕方さえわかっていれば誰でも出来る仕事だった。染料ないし顔料、界面活性剤などをメスシリンダ、上皿天秤で計量した薬品を有機溶剤に溶かし、10リットル入りのプラスティックボトルに入れて、スターラを使用して数時間かき回すという簡単な仕事だ。ボールペン、サインペン、蛍光ペンなどそれぞれの筆記具に合わせたインクが調合される。
ちょうどその頃開発室では水性ボールペン用インクの開発中だった。当然溶剤は水だ。ボタが出ないように、かと言ってカスレも出ないように粘性を出すのにグリセリンなどの水溶性の有機溶剤と界面活性剤をどのくらい混ぜるかがチェックポイントだった。
しばらくして、工務課の青年が尋ねてきた。翌年設立される電子部門の責任者だ。彼は機械屋だが、そのために電子関係の勉強をさせられたそうだ。僕は前職が制御関係(と言っても実は制御盤の組立てであって、設計や開発に携わったわけでもないのだが)だったということや某国立大学出身者であるということで彼と同じ新しい電子部門の責任者にさせようということらしかった。
遂にこの職場から排除されることに
(勤務期間81年10月〜90年5月) 安ベー
何とかうまくやっていっていると主観的に思っていたのが大間違いだった。僕の昼休みの過ごし方がやはり問題となっていたのだ。女性パートタイマーから、工場長に告げ口があったのだろう、ある日突然僕への何の断りもなく(当たり前だが)工場の向かいのマンションの玄関に鍵がかかるようになった。僕は昼休み中は眠むりたいし、そのためにマンションの一室に入りたかったので何とか開けてくれるように呼び鈴を鳴らしたが、中に居るはずの女性たちは僕の鳴らす呼び鈴を無視した。
その一室が一階だったことが災いしたのだが、頭に来た僕は庭の方に回ってベランダから部屋内に入った。当たり前だが、これがまずかったのだ。そんなことがあった次の日はベランダ側の窓、扉も締められて、何処からも入ることが出来なくなった。それと、工場長から「君はマンションの部屋にベランダから入ったそうだが、何だと思っているのか」と叱責を受けた。しかし、僕は「昼休みを何処で過ごそうと構わないではないか」と抗弁した。
しばらくして後、社長から呼び出しがあった。「君は工場長と言い争ったそうだが、工場長は君と一緒だと仕事が出来ない。工場長が辞めるか君が辞めるかのどちらかだと言っているが」と話された。僕は、その時点では自分が悪いとは全く思っていなかったので、「僕は辞めるつもりはありません」と答えた。「そうか仕方がないな」と社長は条件を出してきた。「君が辞めたら、本来だったら退職金などまだ出ないのだけれど、一か月分の退職金を支払いましょう」と言われたが、「解雇なら予告手当てが出るのは当たり前だし、今回は解雇でもなく退職勧奨なのだから、一ヶ月分出るのも当然だ。更に一時金の査定期間はクリアしているので年末一時金支給時にはその支払いもお願いします」と要求した。この要求が通ったのだ。
早速、次の職場を探し求める
要求が通ったからといってそれで満足しているわけにはいかない。それと、主治医にこの件を話して、昼になると眠くなるようになったことは朝、服用する薬の量がその当時の僕にはもはや多すぎる量ではないかと、薬の量をまた減らしてもらった。そして生活のためにすぐに次の職を求めて、住んでいた近くの三鷹職安に行った。優しそうな職安の係員が僕の履歴に注目して、すぐに良さそうなのを見つけてくれた。調布の筆記具メーカーのインクの製造・開発要員だった。大学時代に化学を専攻していたので、募集要項はクリアしていた。
面接を受けに行ったのだが、調布でもかなり大きなメーカーだと思った。広々とした野球場はあるし、テニスコートもある。工場の敷地内には調布でも有数の桜名所の大きな桜並木があるし、事務棟以外にも工場棟がいくつもある。どの建物も天井の高い平屋建ての建物だ。工場敷地が広々としている。話を聞くと戦前は陸軍のご用達のペン先メーカーで、「お茶」、「お花」、「テニス」などのお稽古ごとを習えるので、結婚適齢期のお嬢さんの花嫁学校だと言われてきたらしい。今でもGペンやイラストレータ必携のイラストペンなどを製造している。
面接では総務課長と開発室長が立会い、前職の町工場の制御盤屋さんにその場で連絡をとり、真面目な人間だというコメントを得たようだった。ライバル会社も製造ロボットを開発し始めているのでその会社も電子部門を関連会社として設立するということらしかった。「翌年新設する電子会社に採用後移ることになるかもしれないが、前職から言っても経験がありそうだから、移動してもらえるかな」と言われたが、採用してもらえるのであれば何でもするつもりでいたので即OKと返事をした。大学の卒業証明書を提出することを前提に即決で採用となり、あくる日から仕事をすることになった。
すぐにインク製造現場に
インク開発室に通され、そこでインクの処方箋みたいなものを見せられて調合するという仕事だ。薬品の計量の仕方さえわかっていれば誰でも出来る仕事だった。染料ないし顔料、界面活性剤などをメスシリンダ、上皿天秤で計量した薬品を有機溶剤に溶かし、10リットル入りのプラスティックボトルに入れて、スターラを使用して数時間かき回すという簡単な仕事だ。ボールペン、サインペン、蛍光ペンなどそれぞれの筆記具に合わせたインクが調合される。
ちょうどその頃開発室では水性ボールペン用インクの開発中だった。当然溶剤は水だ。ボタが出ないように、かと言ってカスレも出ないように粘性を出すのにグリセリンなどの水溶性の有機溶剤と界面活性剤をどのくらい混ぜるかがチェックポイントだった。
しばらくして、工務課の青年が尋ねてきた。翌年設立される電子部門の責任者だ。彼は機械屋だが、そのために電子関係の勉強をさせられたそうだ。僕は前職が制御関係(と言っても実は制御盤の組立てであって、設計や開発に携わったわけでもないのだが)だったということや某国立大学出身者であるということで彼と同じ新しい電子部門の責任者にさせようということらしかった。
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